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世界の賢人をピックアップして、賢人のおすすめ本を紹介します!

堀江貴文 おすすめ本

堀江 貴文(ほりえ たかふみ、1972年10月29日 )

 

 

⭐️まとめ⭐️

ホリエモンの考えとして、楽しむ事、遊びをビジネスに変えられるセンスが大事としている。何より直ぐに行動する実行力を求めている。

また、教育者に関しては、キュレーションでいいと言っている。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

次に読みたい本

 

 

結局何をやるにしても気合と根性ということになります。ものごとを複雑に考えずにシンプルにやるべきことをやる。

  

 

iPhone Xが証明する画像認識能力の高さ
AIやロボットは着実に、私たちの仕事や生活に採り入れられている。今後、何が起きるのかについて、身近なAIやロボット技術の一端を紹介しながら考えていきたい。


まずは何と言ってもスマホだ。

AIを搭載したアプリがどんどんリリースされているが、スマホ本体で言えば、顔認証システムが、AIによる画像認識の技術によって、画期的に進化した。スマホは個人情報の宝庫であり、認証システムの強化がますます重要になっている。

その進化を最初に感じたのは、2017年にリリースされたiPhone Xだ。新たな搭載機能として、顔認証システムの採用が大きな話題となった。それまでの指紋認証・ホームボタン方式からの大胆な仕様変更だ。私も使ってみたが、認識の精度の高さは、なかなかのものだった。

iPhone7くらいまでの機種では、私の指紋が薄いのか、ときどき認証してくれず、ややイライラしていた。わずかな時間ではあるが、認証の頻度が半端ないだけに、積み重ねれば大きな時間のロスとなっていただろう。

だがX以降は、認証ミスのストレスはほとんどない。AIを駆使した画像認識能力の高さの証明だ。Xの直後に発売されたXSシリーズは、快適性がさらに向上していた。ネット接続同様、この分野では秒単位でのサクサク感の向上が、勝負の分かれ目となるような世界だ。

画像認識技術で無人店舗が広まる
スマホのAI化はどんどん進んでいく。

開いた瞬間に、使い手が何をしたいかを先回りして提示したり、逆に使わない機能やアプリなどを自動的にセーブして省電力化したりするなど、ますます使い勝手が良くなっていくのは間違いない。スマホにも、「手」や「足」という身体性を持たせようという研究だって、どこかで進んでいるはずだ。

現在、最も進化しているAIの「目」、つまり画像認識の技術は、無人店舗の登場を劇的に進めていく可能性を秘めている。

無人コンビニをはじめとする無人店舗は、買い手の買い物スピードの向上や、売り手の人件費の削減という点から、いずれは世界中でどんどん広がっていくだろう。

しかし、いま中国などで急速に広まっている無人コンビニの多くは、最後に客が商品をひとつひとつレジシステムにかざし、瞬時に読み取られた商品情報から決済金額が提示される仕組みだ。

アマゾンが模索する「無人コンビニ」の仕組み
中国ではQRコードが主流だが、現在、多少のコストはかかるが、RFIDICタグなどから電波を介して情報を読み取る非接触型の自動認識技術)も主流になりつつある。タグなどに埋め込まれたICチップを介して、商品情報が瞬時に読み取れるため、カゴから商品を出す手間も省けるシステムだ。

有人、無人に関わらず、広く導入が進んでおり、ユニクロでも採り入れられている。ユニクロも、無人店舗の形態を探っているのかもしれない。

これに対して、アマゾンは画像認識の技術だけを使い、「Amazon Go(アマゾン・ゴー)」という無人コンビニを実現させようとしている。要するに、店内に設置された複数のカメラやセンサーが客の行動を追跡し続け、どの商品をバッグに入れたか、戻したかなどを解析。客はレジでの決済をすることなく、そのまま店舗から出れば、後にクレジット決済される仕組みだ。

スマホをかざすのは入店時のみ。いずれは顔認証などで、入店時にスマホをかざす手間もなくなるかもしれない。


無人コンビニ実現を阻む「防犯」という課題
もちろん、どちらの方式であれ、AIによるリコメンド機能はより強化されるだろう。ネットショッピング同様、客のデータはどんどん蓄積され、リアル店舗においても、その人に向けて、時々のオススメ商品をスマホなどに提示してくることになるだろう。

2018年秋、日本でも赤羽駅のホームに、無人コンビニが実証実験の一環として期間限定で設置された。こちらもAIによる画像認識技術が駆使され、客は入り口と決済時に電子マネーをかざし、利用する仕組みだ。販売員不足への対応と、採算性が厳しくなっているキオスクの再生が目的というが、利便性は高く、普及していく可能性は高い。

しかし、いずれも防犯という点ではまだクリアできていない課題が多く、利用に際してさまざまな制限がある。

万引きを検知するのは、実はけっこう難しい。というのも、ディープラーニングするための「教師データ」の量が、足りないのだ。

それはそうだろう。万引きの実例を集めるには、うまくいった万引きを大量に再現しなければいけない。でも、どうやって? 人の目をすり抜けるような巧妙な手口を、いかにして再現すればいいのか?

 

 
 

民間ロケットエンジンの開発から「マンガHONZ」「WAGYUMAFIA」と多彩な活躍を続ける堀江貴文さん。「お金」とは何か? 「人間の本質」とは? じっくり語っていただいた“特別授業”を『マンガでわかるお金の教科書 インベスターZ[ビジネス書版]vol.1』(2016年刊)から期間限定で公開する。
「お金が好きか?」という問いはおかしい
メルマガや著作などの発信活動で、だいぶ変わってきたとは思うのだが、いまだに“堀江貴文は「金の亡者」「お金が大好き」”というイメージを持たれている。なぜだろう? お金を大好きだと思ったことは、一度もないのに……。

以前、講演イベントでこんなことがあった。

お客さんとの質疑応答の際に、「自分はお金のためには仕事をしていない」という経営者の男性にくってかかられた。「おまえは、どうしてそんなにお金が好きなんだ!?」と。せっかく質問してくれたのだから、きちんと答えたいのだが、いくら考えても質問の意味がわからない。


お金が好きとは、どういうことだ? 私はこう答えた。

「自分にとってお金は、爪切りと同じです。爪が伸びたら使う道具。必要なときに、必要なことをしてくれる道具に過ぎません。僕からすると、『どうして爪切りが好きなんだ?』と質問しているように聞こえます。答えようがありませんよね。あなたは爪切りのこと好きですか? と聞かれたら、どうしますか?」

そして「本当にお金が好きで、お金にとらわれているのは、あなたのほうではないのですか?」とつけ加えました。すると男性はバツが悪そうに、黙ってしまった。

いろんな著書で言っていることだが、お金はただの道具だ。それ以上でも以下でもない。ただし、道具としては万能過ぎるのかもしれない。だから誤解が蔓延っているのだろう。

お金の本当の本質は「信用」だ。 お金は、信用を数値化したものにすぎない。

物を手に入れる、人に貸す、ビジネスを進めるなど、必要な求めに応じてくれる信用を、国家が数値で保証している。流通しやすいよう一応、紙幣や硬貨としては存在するが、ただの紙であり、ニッケルや亜鉛に過ぎない。オンライン上の数値だけで、その役割は問題なく果たせる。

信用がお金の本質。

結論はそれに尽きるが、財布や金庫にある紙幣や硬貨が、本質を見誤らせている。紙幣がどれだけ束になっていても、その物体に紙束という以外の価値はない。けれどほとんどの人は、財布に紙幣がたくさんある状態を、強く望んでいる。

紙幣をありがたがるのは、新興宗教の教祖の発行したお札を、ありがたがっている信者とまったく同じ。大事なのは教祖の説く教えのはずなのに、お札があれば幸せになれると勘違いしているバカと何も変わらないのだ。

一方で、信者にとって信用が、お札にあるというなら、文句は言えない。お札に平気で何百万円も払ったりするのも、御利益という信用が、その代価なのだ。

たとえば会社の社長が1000万円で掛け軸の絵を買ったとすると、社員からは「なんであんなものに1000万円も払うんだ?」という声があがる。それは社員が掛け軸を信用していない、1000万円の価値を見出していないからだ。

人は自分の信用を基準にして、物の値段を決めている。紙幣や貨幣、つまりお金は、その数値の代理的な役割を果たしたものでしかない。

だから好きかどうか、という問い自体がおかしい。形のない、曖昧な概念の信用に対して、好きも嫌いもないだろう。 私が爪切りに対して「爪をきれいに切ってくれる」、それ以外の感情を何ひとつ持っていないことと同じだ。

そういった基本的な概念は、簿記や会計を学べばすぐわかることなのだけど、ほとんどの人は教わる機会も、教わろうという気もない。残念なことだ。

信用を生みだすのにハッタリは有効
ビットコインの出現でお金の概念が変わった、と言われる。けれど、私は別にそう思わない。ビットコイン中央銀行がなくても自律的に動く、バーチャルなお金のシステム。仕組みそのものは革新的であったかもしれないけれど、ネット社会では遅かれ早かれ出現しただろうし、お金の本質は変わっていないと思う。

お金とは信用のひとつの表現形態に過ぎない。逆に言うと、お金をたくさん扱っている人は、信用とは何であるかを理解している。最たる例は、借金を抱える人だ。

「自分にはビジネスで多額の借金があります」と言われると、世間ではネガティブなイメージにとらえられるが、私は逆に高く評価する。彼自身に、借金の金額分の信用があったから、お金を借りることができたのだ。


反対に、起業志望者のなかで借金を一切せず、せっせと自己資金を貯めている人がいるけれど、何をしてるんだろう? と思う。信用されていないから借金できないだけじゃないのか。あるいはプライドが邪魔して、お金を貸してくださいと頭を下げられないのか。

10の信用があれば100のお金を集めることができるが、100のお金があっても10の信用は得られない。すべてのビジネスの成功者は、このことを理解している。

しかし注意しなければいけないのが、詐欺師だ。詐欺師は、信用を巧みに捏造する。捏造だろうと何だろうと信用が得られれば、お金を動かすことはそれほど難しくない。


何をもって本当の信用か、詐欺なのか、はっきりした境目は存在しない。実は詐欺師なのに信用のプレゼンがうまいから大金持ちになっている人は、ごまんといる。

逆に、きちんと信用に足るビジネスをしているのに、周りが「あいつは詐欺師だ!」と言いだすと、途端に詐欺師としか見られなくなってしまう例もある。私なんかは、そう言われたほうだろう。

詐欺師の信用は所詮ニセモノなので、そのうち見破られるだろう。詐欺師に見られてしまった人は、信用が本物ならば、理解のある人が必ず評価してくれる。

本物の信用は、「お金(+時間) を自分自身の経験のために、どう使うか」「周囲の信用をいかに得ていくか」を真剣に考え、実践していくことで、生みだしていける。

シンプルに言うなら、楽しむことだ。楽しんでいると自然に人は集まってくるし、面白い知識や経験値、人間関係が蓄積されていく。「この人にならお金をかけてもいい」とか「一緒に苦労しよう」と思われる、パーソナルな価値が信用につながっていくのだ。

世の中を見渡すと、「いくら貯めるか?」「どれだけお金を増やすか?」「何をして稼ぐか?」といったことばかり考えて、「どう信用を生みだすか?」とは、考えない人が多すぎる。

お金が欲しいなら、まず信用だ。

大金の動く投資やビジネスで求められるのは、信用、それに尽きる。ビジネスは、信用を得ればOKだ。そこに多少のハッタリを加えると、さらに効果を発揮する。「やった者勝ち」は、信用を得るときにも使える技なのだ。

私が見る限り、世の中は「やらない」やつばかりだ。考えているだけで、何にも行動を起こさない。

頭の中でビジネスプランを思い描くのは、みんな好きだと思う。しかし、そのプランを現実に移そうと実際に動きだす人は少ない。不思議なことだ。頭の中のプランを形にできるのは、本人しかいないはずなのに。

たとえば、よく「起業準備中です」などと言う人がいる。何を準備しているんだよ! と言いたい。資金を調達したり、経営に必要な知識を学んだり、そういうことが準備らしいのだけど、いつ準備は満たされるんだ? そして準備が満たされるラインを決めるのは誰なんだ?


準備中だなんて、起業に尻込みしている不安の言い訳だ。自分で納得のいく準備ができたら走りだす。そんなものは起業ではない。

とにかくまず、走りだして、足りないものは走りながら、集めていったらいい。練習を積み重ねる必要はない。とにかく実践あるのみ。どんなに練習しようと、走りだしたあとの実体験に勝るスキルはないと思う。


私は2015年の夏、コペンハーゲンでアイアンマンレースに出場した。スイム3.8キロ、バイク180キロ、ラン42.195キロ、合計約226キロの過酷なレースだ。

スイムとランは日常的にトレーニングしているが、バイクの練習は一度もしなかった。周りからは「それじゃ絶対に完走できない」と言われまくった。だけど結果は、きっちり完走した。自転車が得意だと、自分で信じきっていたから、「絶対ムリ」と言われても、不安は感じなかった。途中つらいときはあったけど、リタイアしようとは思わなかった。

「絶対ムリ」派は、「レースの前にバイクで1000キロは練習しておかないとダメだ」と言う。どうして? 練習でそんなに長距離を走る意味がわからない。

とにかく本番。何かあったらそのとき対処する。これでアイアンマンレースも乗り切れる。私はそれを実証してみせた。

事前の準備を変に大事にする人は、プライドが高いだけじゃないだろうか。はじめから失敗したときの理由づけをしているというか。

ダメだったら、またチャレンジすればいい。その程度のことだ。

実際に動きだすのは1~2%の人だけ
チャレンジの選択肢は多く持っておこう。何でもやることは、最良の自己投資だ。

学生なら、部活を掛け持ちするのがいい。多くの学校は、生徒が入部する部活はひとつに限っている。悪しき慣習だ。そのひとつが才能を発揮できる部活とは限らない。要領のいいヤツは、部活をうまく掛け持ちしている。それでいいと思う。

サッカーと野球と水泳と簿記とパソコンを同時にやって、一番結果を出せるジャンルに最も多く時間を費やす。自己投資法としてはベストだ。気になったものは、何でもやってみよう!


以前、あるテレビ番組で高校生が「将来、農業をやりたいんです」と言っているのを見かけた。ビジネスとして農業に取り組もうという若者の姿勢は面白いが、将来とは、いつのことなんだろうか。いますぐやればいいのに。学校の名前で農地を借りて、まず野菜の栽培を始める。畑仕事は後輩に手伝わせてもいい。穫れた作物を無人販売所で売って、利益を出していけば、立派な学生ビジネスだ。

どうしてすぐやらないのか。農業は大変な仕事だから、受験勉強していい大学に入り、いったん就職して、充分に社会経験を積んでから手がけるべきという思いこみがある気がする。


そんなことはない。農業なんて、誰だってできる。

少し前の日本人は、農業学校にも行ってないのに、ほとんど農民として暮らしていたのだ。どんな野菜も、種を蒔いて水とか肥料をあげれば、まあまあ育つ。生育が難しい野菜はともかく、ジャガイモなんて切り分けて灰をまぶして、植えておけば勝手に増えていく。もちろん実際の農業にはそれなりの大変さがあるけれど、別に特別な人にしかできないものではない。

繰り返すが、理屈をこねて止まらず、動きだすこと。何でもやること。成功をつかむには、このふたつしかない。私はさまざまなメディアで発信してきたけれど、実際に行動に移したのはせいぜい1~2%ぐらいだろう。

まあ1~2%しかいないから、動きだした人が成功しやすいという面もあるだろう。けれど、逆に行動しない人が、そのぐらい低いパーセンテージになった世の中のほうが断然、面白いと思う。

親の世代の常識も協調性もいらない
具体的に、どう動きだせばいいかわからない、何をやればいいのかわからないという若い人の意見をよく聞く。思うに、みんな体験の絶対量が少なすぎるのではないか。 
たとえば高校の文化祭で、模擬店をみんなでやって、商売の楽しさに気づいたり。部活で部長を任されたら、コーチングに興味を持ったり。普通の学校生活のなかにも、体験のチャンスはいくらでもある。なのに多くの学生は、体験しようとしない。


豊かな体験ができていたら、面白いことに向かって、身体が勝手に動きだすはずだ。

日本は、親が子どもの体験をコントロールしすぎているのかもしれない。子どものために体験を制御するのが、いいことだと決めこんでいる。

自分が高卒だから、子どもには大学に行かせたいとか、塾に行かせるために遊びを禁止したりとか。大学に行けば安泰というワケの分からない信仰が、親世代には根づいている。

親の常識とか、先生の常識は古い。どうしようもなく古い。20~30年前の常識なんて、現代にはまったく通用しない。  子どもの行動をコントロールするのが、正しい大人の役目だと思いこみ、子どもの本来の可能性を摘んでいる。そういうことが教育現場に理解されていないのは、大変な問題だ。

たとえば協調性。義務教育レベルでは、いまも大事にされている能力らしい。管理しやすい兵隊を養成するために導入された、戦前のカリキュラムの名残だ。

当時の学校教育の主な目的は、ジェネラリストの育成だった。個性的にも能力的にも周りから突出しない、組織の政治に波風を立てずに、仕事をやり過ごす方法を教えこんできた。

だが、現在は経済の中心がグローバルなネット社会に移行している。求められるのはジェネラリストではない。個性的で、多様な変化に適応でき、そして競争に勝てるスペシャリストだ。

上司の顔色を窺い、空気をうまく読んで、「出る杭」にならない人が、プラスの評価を受ける分野は消えつつある。「先にやる」「動きの速い」、そんな「競争に勝てる人」が、どの分野でも重用されているし、成果を上げている。

自己実現のためには素早く行動し、実践に臨み、スペシャリストの競争力を伸ばしていかないといけない。

協調性は不必要だとまでは言わないが、役立つ場面は公務員の世界の一部とか倒産寸前の会社とか、ひどく限られるだろう。それに協調性をいくら磨いたって、新しいものを生みだす感性は育たないと思う。

新しいものが次々に現れる現代社会のなかで、たくましく生き抜いていく力を子どもに身につけさせるのが学校のはずなのに。現代には通用しそうもない協調性を、まだ説いているのはおかしい。

協調性なんかいらない。スペシャリストの才能があればいいのだ。

知り合いの人気マンガ家は、周囲との協調性などまったくない。大手版元やテレビ局と真っ向から対立しても、自分のやりたいことをやりきる。義務教育ではだいぶ苦労されたタイプだろう。だけど才能があるから問題ない。才能があるから、敵が多いぶんだけ支持する人も多い。彼の支持者たちは、彼の人格を尊敬しているわけではない。才能を崇めている。協調性なんか、どうでもいいのだ。

才能のあるところで楽しく仕事する。それで充分だろう。

自分には才能がないから無理ですとか、選ばれた人しかできないです、などと言い返されることもあるが、わかっていない。

才能がないのではない。自分が何の才能を持っているのか、知らないだけだ。才能がないから協調性を大事にやっていくなんて、才能の探究をサボっている怠慢にしか聞こえない。

とにかく体験しよう。多くの体験でしか、才能を伸ばせる、ワクワクする楽しい何かは見つからない。言うなれば「ノリの良さ」だ。

プライドにとらわれて動きださず、才能を腐らせてしまうほど、バカバカしいことはない。ノリに任せて、あらゆる体験に臨んでほしい。

 

ノリよく、たくさん経験しよう
第1回で話したノリの良さにつながる話として、漫画『インベスターZ(コミックス第8巻)』のなかに登場した私は、若者にある体験を無茶振りしている。不老不死ビジネスへの投資を申し出た京大生の中川に、東京から札幌まで43時間半以内にヒッチハイクして到着するように命じたのだ。

これは面白い。もし現実に中川のような青年が現れたら、同じことを命じるかもしれない。

ヒッチハイクは、いい体験だ。私も学生時代のお金がない頃、よく国内でヒッチハイクした。車を止めて知らない人に声をかけるのは、すごく怖い。だけど車に乗せてもらえないと移動できないし帰れないのだ。若者が度胸をつけるには最適の方法だ。

ヒッチハイクで日本一周も、10代で投資ビジネスも、豊かな体験。体験の多い人が、面白い人生を歩めるのは間違いない。多くの体験のなかで「これが本当に好きだし、得意だな」と思えるものに出合える確率も、当然上がる。

「どうやったら好きなことが見つかりますか?」の回答は、ノリ良く、たくさん体験をすること、これしかない。


先生・大人はへたに教えるな
大人は子どもの体験を全力でバックアップすること。邪魔しても意味がない。というか、邪魔する根拠がない。子どもが大きくなる10年後、世の中はこうなっていますという明確なビジョンがあれば、好きなことをやらせないほうがリスキーであるとわかるはずだ。

初等教育の先生は、今後はキュレーターに徹するべきだと思う。あまたある情報からノイズを除去して有用な情報だけ抽出して提示する役割だ。子どもたちの興味あること、才能を伸ばせそうなことを、できるだけたくさん提示して、何を取るかは子どもに選択させよう。

いまの初等教育のシステムでは、本当に有用な知識を子どもたちに教えるのは、限界だろう。だいいちスマホも使いこなせない先生ばかりの教育現場で(しかも禁止していたりする)、本当の創造性が育つわけがない。

先生はへたに教えるな! というのが私の一貫する主張だ。

ダメな先生は、「おまえには才能がないから○○は諦めろ」とか「やるだけ時間の無駄だ」などと言って、生徒の選択肢を絞ろうとする。それが大人の役目だと思いこんでいる。大間違いだ。うまくいくかどうかの判断は、本人がすること。

親や大人にできることは、子どもに「これやってみるか?」とたくさん差し出して、「やる!」と言ったものをすべてやらせる。これだけだ。

私は子ども時代、「マンガを読んだらバカになる」と言われ続けた。「テレビばかり観たらいけない」と言われたし、「勉強の邪魔になるから」と親にパソコンを捨てられた。やりたいこと、好きなことをたくさん封じられてきた。

けれど結局、大人になって役に立ったのはパソコンの知識であり、テレビやマンガで培った感性だった。親や教師の言うことを信じてもロクなことはない。

パンドラの箱を開けるのが人間
旧来の発想で10年後の将来を描くのは、不可能だ。タブーとされたものがタブーではなくなり、選択肢はさらに増えていく。

左寄りだろうと右寄りだろうと、旧来型の社会モデルを守ろうとしている人たちは、いまのシステムが永続的に守られていくものと信じている。

私には理解できない。彼らは、人間がどういうものであるのか、本質的な認識が欠け落ちている。人間というのはパンドラの箱を開けたがるものだ。それが人の本質だ。
パンドラの箱を開けようとする人間が一定数いないと、人間は人間たり得ない。誰もパンドラの箱を開けないのは、猿の社会だ。


私たちはなぜ猿から人間に進化できたのか? パンドラの箱を開ける猿が、現れたから。行動し、リスクを取ってチャレンジした猿が続々出現したことによって、私たちは木を降り、火を扱い、文明を築いてきたのだ。 以前の暮らしや価値観にこだわり、チャレンジを否定してしまったら、それは人間ではない。

どんなに「危険だ!」と言おうと、パンドラの箱を開ける誰かは、必ず現れる。開いた箱は、もう二度と閉じられない。私たちはパンドラの箱を開けてきた。これからも、パンドラの箱は開いていく。それが人の社会の本質であることを、忘れてはいけない。


どうせ誰かがチャレンジする、ならば自分で!
原子力発電はパンドラの箱の最たる例だ。弊害や事故のリスクはどうであれ、原子力発電は人間が開けた箱だ。何者かに強制されたものではない。私たちが自らの意志で、原子力をコントロールしていくという文明を選んだのだ。灯してしまった原子力の火は、もう消せない。開いた箱は、閉じられないのだ。

原発を唱える人たちは、その根本がわかっていない。もっともらしいデータや論証で原発廃止を訴えるけれど、結局は人道論、情緒論に終始する。じゃあ開いたパンドラの箱を、人の意志で閉じることができるのか? その問いには誰も答えられない。
開けられそうな箱は、絶対に開ける。それは人の宿命だ。人間が人間たることを否定してもしようがない。

パンドラの箱というのは開けられるという前提で、すべての物事を考えよう。

原子力発電は1950年代前半、当時の科学界や国家間でリスクは論じられたが、結局「平和政策」として開発が進み、旧ソビエト連邦のオブニンスクで最初の発電所が造られた。日本では湯川秀樹ら識者の反対を受けながらも、1966年に日本初となる東海発電所が稼働を始めた。

その結果、どれほど私たちの科学力が進化したか。検証するまでもない。新しい進化の果実を得るために、リスクを取って前に進むのが、人類の美しさだ。 チャレンジは止めても、意味がない。どんなに危険でも、安定性がなくても、どうせ誰かがチャレンジする。ならば自分で、チャレンジしたほうがいい。

素人革命により「遊び」が仕事に変わる
チャレンジのハードルを下げたのは、IoT(Internet of Things:あらゆるモノがインターネットに接続し、相互に通信し制御しあう、という概念)革命だ。

IoT革命の中心であるスマートフォンは全世界で、何億台というロットで出荷されている。大量生産により、1台あたりに搭載されているセンサーの値段は安くなって、高性能化がどんどん進んでいる。それによってロボットや、自動運転、様々なものの自動化の技術が飛躍的に進化してきた。IoT革命はスマートフォンの進化によって起きたといえる。

タクシー運転手、スーパーのレジ打ち、会社の財務部門などはやがて機械化され、職業としては消えていく。物流も自動化される。農業も、食料生産も自動化される。人が汗水流して働く場は、これから年単位で減っていくだろう。

仕事がなくなると、どうなるか。人には余暇が、いっぱいできる。だから遊ぶようになる。遠くない将来、世界の一大産業は「遊び」になると思う。そのたしかな兆しは、「素人革命」だ。


お金や技術や才能がなくても、遊びや趣味の延長で、プロと並ぶ仕事をしている素人が続出している。たとえばカメラマン。プロ用のハイスペックなカメラを、一般人が普通に使っている。手ぶれ補正や、オートフォーカス機能の充実はすごい。フィルム時代にはプロにしか撮れなかった奇跡の一枚が、誰でも撮れるようになった。

私の元秘書の女性も、未経験者だったが、プロのカメラマンとして仕事をしている。技術はそれほどでもないけれど、カメラの性能がいいので、写真のクオリティには遜色がない。彼女はコミュニケーション能力がとても高く、子どもに好かれる。彼女の撮った自然な笑顔の子どもの写真は、なかなかの人気だ。収入は自分の子どもを養うには充分だという。

技術の進歩によってプロと同じレベルの仕事ができる。彼女も、素人革命の恩恵を受けたひとりと言える。


「行動」が「信用」になる
また、こんな例もある。以前、札幌でひとりの主婦に会った。普通のシングルマザーなのだが、「キャラ弁」づくりがめちゃくちゃうまい。オリジナルのキャラ弁をブログにアップしているうち大人気になった。ブログで発表するという、わずかな行動をとっただけで、彼女のもとには仕事のオファーが殺到している。

私はInstagramYouTubeも活用したほうがいいと提案した。英語で発信したら、きっとすぐ100万フォロワーぐらいになる。札幌の主婦が、世界中から引っぱりだこの、キャラ弁クリエイターになる可能性は充分にある。この主婦も、素人革命の実現者だ。

要は、アイディアと行動力だ。

素人革命を遂げたのは、みんな自ら動きだした人たちだ。自分で行動したことが、彼らの「信用」となっている。

時間をかけた勉強や訓練は、どのジャンルでも一定量は必要かもしれない。しかし、蓄積されたスキルではなく、やりたいように動きだし、それまで「遊び」だったものをビジネスに変えていく個人のセンスが、信用ひいてはお金を生みだしていく時代になりつつある。

遊びを起点にした素人革命が、次代の新しい産業革命となるだろう。

情報を掛け合わせて新しいものが生まれる
以前、バンコクのホテル、ウェイクパークに行ったときのことだ。そこで、ワイヤー・ウェイクボードに挑戦した。ワイヤーで吊られたボードに乗り、電動ケーブルで引っぱられて水面を走行する。スリリングで、本当に面白かった。

ウェイクパークの周りは一面田んぼだった。10年後はきっと、GPSセンサーで自動制御されたロボットが、穀物の種蒔きから収穫までせっせと働き、その横で人々がボードに乗って遊んでいる光景が広がっているだろう。


そういう世の中になったとき、誰が一番得しているのか。いま、田んぼの横で日がな一日、ボードに乗って遊びまくっているヤツらだ。10年後には超うまいインストラクターになって、観光客相手に稼ぎまくっているはずだ。

これは先の素人革命に通じる話だ。遊びがビジネスになったとき、誰が儲かるか? 遊びの達人だ。 現代のコンサルティングビジネスと同様に、楽しく遊び倒したヤツだけが持っている体験や知識が、高い値段で売れるようになる。その先陣が人気YouTuberたちと言えるかもしれない。

遊び方を知らないと豊かな人生を送れないというのは、そういうことだ。昔の言い方とは実情が違っている。遊びの体験を仕事に活かすのではなく、遊びそのものがビジネスになる。遊ばないと儲からない、そんな時代になっていく。

海外には面白い遊びがいくらでもある。バックパック旅行でもLCCチケットでも、うまく利用すれば、バイト代程度で海外へ安く行ける。泊まりはAirbnbを使えばいい。広い世界の情報を得るには、少しの工夫とお金で足りる。自分には遊ぶお金も余裕もないなんて、諦めていたらダメだ。

体験は、情報だ。情報そのものは役に立たないかもしれない。けれど情報を掛け合わせることで、新しいものが生まれてくる。掛け算の母数を増やすために、もっと体験を積もう。遊ぶだけでも全然OKだ。

年がら年中、遊んでいるだけなのに億万長者、という若者は、ぽつぽつと現れてきている。これからは遊び倒した者が勝つ世の中になる。

本当の「豊かさ」とは何か?
豊かな人生とは何か? 貯金がたくさんあって、老後が安泰なことが、本当に幸福なのか?

質の良い情報を浴び、思考停止を解いて真剣に考えれば、答えはわかるはずだ。 金に縛られる人生を生きるな! と言いたい。お金儲けや、貯金を守ることなんて、考えないでほしい。

人生を豊かにするのは信用、そして楽しい体験を得られる行動だ。 行動した者には、信用が集まる。信用があれば、お金がなくても生きていける。そういった常識が、もっと浸透するといい。

私はかつて自分の著書で、こう書いた。

「アイディアよりも圧倒的に大事なのは実行力だ。思いつきより、考えたことを努力して、形にした人が本当に評価されるのだ。この国では、最初の一歩を踏みだした人が賞賛される向きがあるけど、本当の未来を切り拓くのは、アイディアを体系化できる能力を持った人だろう」

頭で考えて止まっていたらいけない。どんな楽しいアイディアも、実現することに意味がある。尻込みすることはない。素人革命によって、あらゆるアイディアは誰でも実現可能になりつつある。

どんどん行動して、君自身が封じてしまっている、パンドラの箱を思いきって開けよう。ただの道具であるお金に振り回されない、人生の扉がきっと開くはずだ。